第二次惑星開発委員会の宇野常寛(善良な市民)を批判する

 今日は勉強するのを諦めたんで、今月号の論座について喋ろうと思います。ゼロ年代の言論と中吊り倶楽部しか読んでいませんが、全体的な印象は「中年オヤジじゃない俺達からしたら最高!」という感じです。小林よしのり登場回とためを張りますね。3月号のポストロスジェネ特集もかなり期待したのですが、鈴木謙介の文章短すぎました、これじゃあ高橋源一郎が主じゃないですか。 このお買い得感は、宮崎哲也と元噂の真相の記者が語り合う「中吊り倶楽部」が復活したのが大きいですが(これが真ん中にあると論座という雑誌に締まりがでますね)、やはり一番は宇野常寛の学歴と顔が見れたことですね。十二分にオタク批判できる顔してるじゃん、というかイケメン。この顔でお得意のサディスティックな言葉責めされたら腐女子なんてアレがコウなって○×△※。。。。   それにしても彼は立命館だったんですね、僕はてっきり早稲田卒だと思ってましたよ。それを匂わす発言もありましたしね。 では本題へ

 1、本谷有紀子の発言「(略)すごく評判のいい劇団の芝居を観に行った(略)すごく腹がたった。時代性が感じられなかったんです」「(略)いま、この時代に生きていることが反映されなくていいのかなぁ、って考えてしまいました」と、東浩紀の発言「(略)赤木さんの出現は重要だと思いますが、それ以上のものは感じない」「(略)赤木さんと同世代なので、訴えに共感するところは多いんです。でも、それは私小説への共感と変わらないように思う」の差異についてだ。
 勿論この差異はなんら不思議なことではない。作家と批評家の差異である、と言ってしまえばそれで終わりだ。しかしだ。確かに赤木智弘のこれは私小説的な性格は帯びているかもしれない、が、実際は評論か随筆である(だって読んでねえから!読んでねえからここからは妄想で書く!何度も言うが妄想だ)。 
 僕はかつて時代の空気をうまく取り込んだが故に、小説ではないのに文学的・小説的側面を持つようになった「完全自殺マニュアル」を思い出す。かの宮台真司をしてオウム事件の背景にあった男の子の阻害された空気を見事に捉えていると言わしめた本である。こういった空気を取り込んだ随筆と小説との中間作品こそが世間や若者に届きうる最高の作品で、こういった作品にはいかに優れた文学作品も太刀打ち出来ない(訴求力を持たない)と俺は思うのだ。まさにこれこそが今月号のテーマであるゼロ年代の言論、ミニコミが求めていたものそのものではないのか。既存の論壇では世間・若者に届かない、そしてネットでは逆に様々な壁があって真に言いたい事が届かない、そこを埋めるのが僕らゼロ年代の発言者の仕事なのだぁ!!!!と言っていたではないか。
 確かに、東浩紀は反対に俺は理論側に立つ、と言っているからよしとしよう(仮に文学だ発言が宇野常寛のコピペだったらよしとはしないが。まあどっちかが先でどっちかが真似なのは間違いない) ではコピペ元である(多分)宇野常寛はどうだろうか。確かに彼は誤配させることをPLANETSの第一義にしている。だが、それもいくつかの島宇宙を跨ぐから、という理由がまずあってのことだ。そして、宇野はPLANETSvol.4で文学について偉そうに全部をマッピングした際、特定の島宇宙であるSFをそういった理由で批判し、本屋大賞本を多くの人々にまで届いていると絶賛したのだ。そして文学と政治を一緒くたにしている、という発言で斬ったつもりかもしれないが、だったらそれが何か悪いのか?政治の問題に言及する際の、自説に説得力を持たせる根拠の一つとして、島宇宙間を越える手段として文学(自分の体験)を用いたのではないだろうか?赤木の私的な怨嵯は赤木と同世代の「私の心をそのままに歌ってくれてるわ」的な心理と共鳴したからこそ、これほどまでヒットしたのではないのか、代替不可能な私的なヒガミがここまで売り上げと反響を呼んだとは考えにくい。そう、歌だ。浜崎あゆみミスターチルドレン、(年配者に気を使って)ブルーハーツ尾崎豊が若者の心情を言語化してくれたのと同じだ。宮台真司宮崎哲弥はヒット曲、ヒット映画からその年の社会を読み解こうとしているし、サブカルチャーから社会を語ってるのはどこのどいつだ、宇野常寛自身だろう。俺は「完全自殺マニュアル」や「若者を見殺しにする国」をその年のサブカルチャーの1つ、しかもその中でも価値のあるものとみなしている。時代と寝ることのできる文学が死んだからといって、それがラノベ、ドラマ、映画、マンガ、アニメ、特撮「だけ」に置き換わったわけではあるまい。そして俺はこの随筆と小説の中間物から社会を読み解くことが出来ると信じている。 そもそも文学の中の島宇宙問題もあるが、それよりもっと広く世間を見ると、文学を読むこと自体が1つの島宇宙である。今どきは文学よりも圧倒的に新書が読まれている(現在新書はあらゆる島宇宙に属するものが読んでいる)。そこへ赤木智弘が書いた、ということは世間・若者に今日本で起きている現状を文学の島宇宙のX倍もの数に届けたのである。それを批判することは宇野の考えと矛盾してはいないだろうか。
 要約。僕は赤木智弘を支持します。+新たな指摘をすると、宇野常寛マッピングによってあらゆるものを相対化せざるをえず、あらゆるものに言及せねばならなくなった。つまり知ったかぶりである。「もはや一人の知識人が全体性を代表することはありえないということは、多くの者が受け入れている by荻上チキ」例えそれが自分の理解が及ばないものであれ、自分がシンパを感じるものまで言及せねばならない、しかも彼の人気を支えたあの「毒舌」が問題を顕在化させたのだ。彼は属すことのできたであろうあらゆる立場をけなした。だから東浩紀の言う「どの島宇宙を代表するのかを自ら明言しろ」という問いに答えられなかったのだ。アプローチがどうこう言うのはただの後付でしかない。 彼は2ちゃんねらーのやる安全な位置からの投石「○○(笑)」をさらにメタって2ちゃんねらーにさえ(笑)をつけてマッピングした。それは宇野のなした偉大な業績の一つであると同時に、宇野もまたマッピングの対象になることを意味する。彼が必死に自己のマッピング化から逃げているのはわかるし、あまり批判されにくい宮崎哲弥みたいな従来の右でも左でもない微妙な立ち位置、小林よしのりみたいな微妙な立ち位置、を目指しているのかもしれない。しかしマッピングから完全に逃げようとすれば前述したように矛盾が生じる(た)し、やっと捜し求めた最上の特等席に座ると同時に、今まで散々好き勝手を言った周りからの非難が押し寄せてくるのはもはや避けられないことである。


 今回は正直僕の力量を遥かに超えて大尊敬する宇野常寛さんを批判してしまいました。本当は新雑誌一つ一つについて語りたかったのですが。正直言うと自分でも宇野さんを批判する過程に無理があるなあと感じます。現在PLANETSvol4を他人に貸しているのが20%であとはもう力量不足です(笑)ただ、「要約+新たな指摘〜」以降は割と頑張ったつもりです。PLANETSを返してもらったらまた訂正するかもしれません。
今回の記事についてはできればコメントをどしどし下さい。

荻上チキと宇野常寛の対談→http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20080224/p2